宮城県支部協議会主催「第3回パークゴルフ大会」を開催!!

8月31日(金)、朝から雨が降る最悪のコンデションでしたが県内各地区協から106名が参加し、大衡村の「おおひら万葉パークゴルフ場」に於いて県支部協議会主催の「第3回パークゴルフ大会」が開催されました。

外の雨を窓越しに見ながら(ゲストハウス内)

 

 

 

 

 

 

コース内のファーウェイやラフは降り続く雨のため思うようにボールをコントロールできず、悪戦苦闘のプレーとなりましたが、男性の部の優勝は泉地区協会長の河合興一さんがグロス98で優勝、女性の部の優勝は古川地区協の大原直子さんがネット108、グロス104で優勝しました。

男性の部優勝 河合興一さん

 

 

 

 

 

女性の部優勝 大原直子さん

 

 

 

 

 

雨の中、カッパを着てのプレーを余儀なくされた参加者の皆さん、途中、誰一人棄権することなく最後まで大会を盛り上げていただいたことに感謝申し上げます。本当にご苦労様でした。

また、大会開催に向け諸準備にご協力いただいた泉地区協の河合会長をはじめ役員の皆さんにこの場をお借りし、御礼申し上げます。

宮城県支部協議会主催「第2回女子交流会」開催!!

仙台国際センターにて

9月4日、12地区協から女性会員・県協女性役員合わせて26名の参加のもと、宮城県支部協主催「第2回女性交流会」を実施しました。

初めに、仙台市博物館において開催されている「古代アンデス文明展」をみんなで見学。

紀元前何千年という気も遠くなるような古代に栄えた文明の優れた土器や織物黄金製品等、貴重な資料を目の当たりにし、しばし時の立つのをわすれてしまう程でした。

見学時間が足りなかったとの声もありましたが、見ごたえのある展示品に皆さん満足だったようです。

その後、国際交流センターに場所を移し交流会を行いました。女性同士、和気合い合いと日頃の他地区協活動等の話に花が咲き楽しいひと時を過ごしました。

参加した会員からは「又、来年もお会いしましよう。」「来年はこんな企画がいいんじゃない」等、積極的な意見も頂き有意義な女性交流会となりました。

県支部協 藤村順子

 

広島ピースステージ2018

 連合・情報労連では、平和四行動として全国の労働組合・退職者団体・平和団体に呼び掛けての『沖縄』『広島』『長崎』『根室』での現地行動を取り組んできているが、原子爆弾投下から73年目の広島ピースステージに宮城県協への参加割当があり、酷暑・高齢等での躊躇もあったが、昨年7月に国連で採択された『核兵器禁止条約』に広島14万人・長崎7.4万人の命が奪われた唯一の被爆国でありながら、「国際社会の分断を一層深める…」と屁理屈をつけ採択に加わらない安倍政権への怒りもあり、意を決し参加した。

4~5日は『原爆投下への道』『原爆被害の実相』『核兵器禁止条約の展望と課題』等の学習、被爆建物・慰霊碑巡りのウォーク。

夜は全国各地から集まった2,000余名による「連合2018平和ヒロシシマ 集会 」。

「ふるさとの街焼かれ身寄りの骨埋めし焼け土に…」と約半世紀ぶりかで『原爆許すまじ』を斉唱したら、熱いものがこみ上げてきた。

広島に来たのは組合役員の立場で2回。テルウェル介護事業展開関連と家族で中国路旅行の合計4回。

原水禁運動では初参加であり、観て聴いて得た知識と私なりに抱いた思いを申し述べ、報告に代える。

◎原子爆弾の開発

ヒットラー率いるナチスドイツの核爆弾保有を恐れ、1942年6月からルーズベルト大統領の下で『マンハッタン計画』が始まり、20億ドル・最大 動員数12万人の巨費を投入して開発が進められ、1945年7月の実験で成功を確認。

◎何故広島に原爆が投下されたか !!

1945年2月、米英ソの首脳会談(ヤルタ会談)で、ルーズベルトの要請に応じてスターリンがドイツ降伏から3か月後に日本に宣戦布告すると約束。

同7月26日に日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表。日本は翌々日の28日黙殺すると発表。

投下目標には京都・広島・小倉・新潟の4都市が上がったが、戦後の占領政策での日本人の反発を考えて朝廷が置かれた京都が外れ、長崎が追加された。

最終命令は広島・小倉・長崎と下され、8月6日午前8時15分、広島市広島県産業奨励館(後の原爆ドーム)の上空600mで炸裂。そして3日後の9日正午近く、長崎市で2発目が炸裂。

小倉は厚い雲に覆われて攻撃目標がわからず、投下を免れた。

◎軍部の暴走と判断誤りが戦争被害拡大を招いた米軍の本土空襲は1944年11月から開始され、延べ106回実施。

全国集計56万人、東京大空襲で12万人の人命が失われたと言われる。

また沖縄への攻撃は1945年3月26日に始まり、6月後に『沖縄慰霊の日』に定めた6月23日に終えたが、この戦闘での死者は一般住民9.4万、日本兵9.4万、米軍兵1.2万で10万人を超えた。

敗色濃厚となった1944年以降も軍部は玉砕・敗走の様を隠し続け、本土決戦を叫ぶ姿勢がソ連参戦を招き、満州・樺太・シベリア抑留等の惨禍に…。

司馬遼太郎・新田次郎の小説や戦争に関わる報道番組等を観ての私の思いであるが、明治維新以降の背伸びした富国強兵・植民地拡大の偏った国作り政治が国内外で多くの人命を奪っていった。

日本が侵略を受けたのは蒙古襲来のみ。琉球・朝鮮半島・アジア大陸へと攻め入り、或いは捕虜として朝鮮人等に強制労働を強いてきたのが、裏面の汚れた日本史。

特に安倍政権は北朝鮮や中国に悪のレッテルを貼り、米国一辺倒の姿勢を変えないが、『沖縄慰霊の日』の式典でノー原稿で澱みなく語り、平和を願う多くの国民に涙と感動を与えた沖縄県浦添市立港川中学校3年・相良倫子さんの朗読は式典参列の安倍総理にどう響いたのか。

平和詩『生きる』の一節を紹介し、私の広島ピースステージ報告とする。

(前略)私はこの瞬間を生きている。この瞬間の素晴らしさがこの瞬間の愛おしさが私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちをどう表現しよう。

大切な今よ、かけがえのない今よ、私の生きるこの今よ。七十三年前、私の愛する島が、死の島と化したあの日。小鳥のさえずりは恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は爆撃の轟に消えた。青く広がる大空は鉄の雨に見えなくなった。草の匂いは死臭で濁り、光り輝いていた海の水面は戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、燃えつくされた民家、火薬の匂い。着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。みんな、生きていたのだ。(後略)

退職者の会 宮城県協議会 会長 本間吉雄