間もなく「敗戦の日」ですね。改めて「村山談話」を読んで見ようではありませんか。次の「アドレス」で開いて見てください。 https://www.awf.or.jp/6/statement-04.html 「参政党」なる連中が「核を持て」などと叫んでいるとか、改めて「反戦」の意識、確認、理解をと思い 探してみました。 どうぞ御覧ください。 髙橋 正幸
また、正幸かと言われそうですが、今日は「広島原爆の日」テレビ中継を見ながら、思い出しています。昭和35年 ? 山形通信部にいた頃の夏に、労組活動の「平和行進」に指名参加で、秋田県境及位峠から金山,新庄、清川と「青森から東京までの行進者、厚綿さん(その弟さんが富沢に住んでいる)に同伴して一泊二日、歩いたことがあった。暑い中を黙々とただ歩いた。思い返すと、これが労組活動、青年活動に加わるきっかけだった。昭和50年代にも「反戦平和の活動」があったが、こんな活動も含めて「社会的活動、運動 」はどこに行ったんだろうか。必需品のように「選挙活動」は少なくともやられてはいるが、「参政党」のようなもの 主張が出てくる社会的土壌が出来上がってきているのではなかろうか。じいさまの繰り言だと言われそうだな。
間もなく「敗戦の日」ですね。改めて「村山談話」を読んで見ようではありませんか。次の「アドレス」で開いて見てください。
https://www.awf.or.jp/6/statement-04.html
「参政党」なる連中が「核を持て」などと叫んでいるとか、改めて「反戦」の意識、確認、理解をと思い 探してみました。
どうぞ御覧ください。 髙橋 正幸
また、正幸かと言われそうですが、今日は「広島原爆の日」テレビ中継を見ながら、思い出しています。昭和35年 ? 山形通信部にいた頃の夏に、労組活動の「平和行進」に指名参加で、秋田県境及位峠から金山,新庄、清川と「青森から東京までの行進者、厚綿さん(その弟さんが富沢に住んでいる)に同伴して一泊二日、歩いたことがあった。暑い中を黙々とただ歩いた。思い返すと、これが労組活動、青年活動に加わるきっかけだった。昭和50年代にも「反戦平和の活動」があったが、こんな活動も含めて「社会的活動、運動
」はどこに行ったんだろうか。必需品のように「選挙活動」は少なくともやられてはいるが、「参政党」のようなもの 主張が出てくる社会的土壌が出来上がってきているのではなかろうか。じいさまの繰り言だと言われそうだな。